投稿情報: 21:17 カテゴリー: 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
有名なゴリラの実験について掘り下げようと思って、チャブリスとシモンズの著書The Invisible Gorilla(邦題「錯覚の科学」)を手に取ってみました。ゴリラのみならず、直観の誤りに関するケースの具体性が秀逸です。訳者はintuitions deceive usを「錯覚」としていますが、私は「直観の誤り」と表現したいと思います。
投稿情報: 12:48 カテゴリー: 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
毎年12月10日に行われるノーベル賞の授賞式。日本人の受賞者も増え、関心が高まっています。
投稿情報: 15:25 カテゴリー: ウェブログ, 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
原題はComplications(複雑性)
投稿情報: 20:49 カテゴリー: 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
NHKの大河ドラマを見ていたら、後白河法王が平清盛から孔雀の羽を献上され、大層喜んでいました。日本人の最高位の人物でも孔雀の羽の美しさに感動したのでしょうか。
美しい尾羽を持つ孔雀は雄でしょうか?雌でしょうか?
尾羽が美しいのは雄であって雌ではないのです...
孔雀図(円山応挙・画、江戸時代後期、MIHO MUSEUM所蔵)
法王ですら...であれば、孔雀の雌は美しい雄の尾羽にイチコロでしょう。
では、なぜ、孔雀の雌は美しい尾羽を持つ雄と番おうとするのでしょうか?
チャールズ・ダーウィンを悩ませた問題です。
2説あるといいます。
一つ目は、美しい雄の子は美しく生まれ、子もまた多くの雌に支持される可能性が高い。だから、自分の遺伝子を残す確からしさが高いというものです。
二つ目は、羽が美しくなるためにはテストロンというステロイドが必要なのです。しかし、このテストロンなどのステロイドは免疫力を低下させてしまう。免疫力が低下すれば、生存することは困難になります。
そこで、尾羽が美しい雄は、テストロンが多くても力強く生きることができることを証明しているのです。美人薄命とは嘘なのでしょうか...
どうやら、二つ目の説が有力なようです。
テストロンが多ければ、羽はカラフルとなり、大きく、歌がうまくなり、攻撃的になります。
雄は自分の子孫を残すために、自らの寿命を縮めても雌と番おうとする。そして予定通り、免疫力を低下させた雄は早く死ぬ。でも、子孫は残るのです。
人間においても、男の方が女よりも平均寿命が短い。幼児死亡率も男の方が高い。男の方が、生命力が弱いのは事実なのですが、その理由の一つがわかったような気がしました。
雄は自らの寿命を縮めてまでも雌にアピールしたい。それは個体が遺伝子の短期的なビークル(乗り物)に過ぎないという現在の生物学の原理を説得力のあるものとしています。ステロイドを使って、個体の寿命を縮めてまでも自己の複製子を残そうとする遺伝子の存在は日常の我々個体の常識を覆すものです。
冷静に見ると、個体には遺伝子の複製を完全ならしめるまでの生存がプログラムされているようです。人間であれば50歳前後。それ以降は、遺伝子には個体に生存し続けさせる理由がありません。むしろ、生殖能力を失った高齢者が数多く残る状態は自らの遺伝子にとって望ましいことではないかもしれません。
今生じている高齢化社会における世代間の競争の問題は、遺伝子と遺伝子から見放された個体との争いといえるかもしれません。
五十路の坂を越えた私はこれから自分の遺伝子と競争することになるのでしょうか?そう語っているのも個体ではなく、遺伝子が言わせているのかもしれません。
個体における二元論とでもいうのでしょうか?個体と遺伝子それぞれの視点から生きて行くのも面白いかもしれません。
「労働し、施し、苦労を積み重ねて来た人生の終末点で私たちはその初めの時期に立ち返り、人生という環が完結するのである。」キューブラー・ロス
あなたは長生きするわよ...と妻には言われているものの、人生50年を経過すると、命には限りがあると思わないわけには行きません。
健康寿命はさらに短いのです。
付け加えると、妻からは体が元気なまま惚けられると大変だとも...
On Death and Dying
原題を直訳すると「死と終焉において」となるでしょうか。 die の進行形である dyingは日本語の臨終とはかなり違った語感があります。臨終というと、死に至るほんの間際のことを指していますが、dyingのスタートはいったいどこなのでしょうか。生まれた時から始まっていると考えることもできます。また、「死」は命が亡くなることですが、それは生死の境だけでなく、その死後の世界も含んでいるのでしょう。
宗教は生の世界と死の世界をつなぐ役割を果たしています。その宗教は死が終わりを意味するものではないと説いて来ました。死後の世界は、キリスト教では天国に召され、仏教では極楽浄土に行き、あるいは輪廻転生する。イスラム教でも天国と地獄があるようです。そうだとすれば、死はゴールではなく通過点であるはずです。 大昔から死への恐怖心を和らげる役割をしてきた宗教ですから、死が通過点であるというシナリオは当然でしょう。一方、宗教を信じない人にはまさにゴールなのかもしれません。 歳を取ると信心深くなるというのは死の恐怖が高まっているためなのでしょう。
しかし、通過点でもゴールでもそれはどちらでもかまわないのです。死後の世界は証明ができないのですから。 そこで、通過点であろうが、ゴールであろうが、どのようにすれば人間らしく、さらには自分らしく終焉を迎えることができるかが本書の課題です。
キューブラー・ロスはその研究から死に対する人の感情の変化を否認 怒り 取引 抑鬱 受容 希望というように変遷するとしています。その上で 家族、医療関係者などの本人以外の人々がどのように関わるべきかを説いています。 がんの告知が一般的になったのはキューブラー・ロスの影響が大きかったのでしょう。尊厳死、インフォームド・コンセントもそうかもしれません。彼女の投じた一石は医師と患者の立場を大きく変えることになったのです。
死を恐れる気持ちは誰もが持っているわけですが、死んでいないことが人間らしく、自分らしく生きていることにはなりません。自分自身がまさにそうなのですが、漠然と恐れ、漫然と生きている。 死への意識は、命という限られた時間の使い道を考えるにはよい端緒であると言えます。
自分らしいライフスタイルで生きることに努力する。それがなければ自分のライフスタイルを今決める。
死の準備をする時間が全くない場合も少なくありません。
がんなどは告知を受けてから死に至るまである程度の時間がありますが、災害、事故や脳溢血などは一瞬にして命を失ってしまいます。あっ!という間もないかもしれません。ですから、いうまでもなく普段から死への準備は必要であると言えます。
人生の時計の針を戻すことはできません。
それなら残された時間をうまく使わなきゃと反省です。
投稿情報: 22:20 カテゴリー: 書籍, 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
マット・リドレーは「赤の女王」において、なぜ、子孫を残すのにセックスが必要なのかについて書きました。「赤の女王」はジーンの話だったと言えます。一方、「繁栄」はその延長線上にミームのセックス、すなわち、なぜ、人類の繁栄にアイデアのセックスが必要なのかについて書いたと言えます。
ミームという概念と言葉を創造したのはリチャード・ドーキンスです。ドーキンスは生物学的な遺伝子ジーンに対して、知的な自己複製子ミームという概念を創造しました。
マット・リドレーは、ドーキンスが知的な自己複製子とよんだミームをたんなる模倣だけではなく、交換による突然変異であると位置づけたのです。
その「アイデアのセックス(交換)」は人類の集団知であるとします。テクノロジーにおける交換は生殖に等しいと。
マット・リドレーは、アダム・スミスの分業とダーウィンの自然選択にドーキンスのミームを組み合わせて「アイデアのセックス(交換)」という概念を創造したと言えます。
創造とは組み替えであるという前提に立つと、組み合わせるモノが多ければ多いほど有利になります。個人レベルで考えると、空っぽに近い頭から新しい組み合わせの結果であるアイデアが生まれる可能性は低いでしょう。さらに集団知という視点に立つと、自分の脳の容量には限界があるので、他人の脳の活用が有利です。
だからこそ、文明の進化には多くの人口と、多くの人口を支える都市が発達した民族が有利だったのです。さらに多くの人口と都市は分業と専門化を促すため、他の民族、都市と交換するモノを産み出しました。そこで、交易という交換によってさらに他人の脳を活用できるようになったというわけです。
その意味でタスマニア島の悲劇は面白い逸話です。面白いというのは現代にも通じる話だと思うからです。
狩猟採集生活では多くの人口を養えません。19世紀初頭のタスマニア島は9つの部族で5000人程度の人口だったといいます。オーストラリア大陸から孤立したタスマニア島では端に進歩が止まっただけではなく、退歩が始まりました。
ヨーロッパ人が初めて見たタスマニア人は針や柄のついた道具を失い、衣服もない状態でした。彼らは主に槍で動物を捕獲し、漁業は忘れていましたが、貝などは好んで食べていたようです。
タスマニア人クラスの小集団では分業が成り立たちません。専門化するということはそれだけの需要が前提となります。そして、専門化していなければ、他の民族が持っていない専門的なモノもないわけで、交換もできません。その結果、進化に乏しく、むしろ退化していってしまったというケースです。
しかし、ヨーロッパ人が来訪するようになった際に交換に関しては興味を示しました。タスマニア人が欲しかったのは、ヨーロッパ人がアザラシ猟に使った猟犬でした。その猟犬は彼らの食料であるカンガルーを捕らえるのに便利だったのです。ところが、彼らは猟犬と交換するモノを持ち合わせていませんでした。そこで、悲しいことに交換するモノを持たないタスマニア人は女を猟犬との交換材料にしたのです。
その後、いよいよヨーロッパ人の農民が移住してくると、タスマニアの原住民は虐殺され、絶滅させられてしまったのです。
「精神の緩慢な窒息」の結果です。
現代に話を戻すと、インターネットを通じた情報革命でハイエクの言ったカタクラシー、交換と専門化によって自発的に起きる秩序が飛躍的に拡大するインフラが整ったということができるでしょう。
しかし、人類の進歩ははしごを直線的に上るというよりは螺旋階段を回るようなイメージだと思います。螺旋階段をぐるぐる回ることによって様々なアイデアが出会い、交配を繰り返し、突然変異していく。
アイデアのセックスは資本主義の中で競争している企業にとっても重要な概念です。企業にとってのミームはコアコンピタンスなどと言われています。
ドキュメントがきちんと残らない企業は自社の知的な自己複製子すら作れない状態にあると言えます。さらにイノベーション(突然変異)を起こそうとするのであれば、アイデアの交配(当然外部と)をする仕組みを整えることが必須条件となります。
しかし、現実的にはタスマニアの原住民のようになっている企業が少なくありません。アイデアのセックスを近親相姦で行っているような...意図的にではなく、結果として。
アイデアのセックス(交換)は社会における適者として生存するために不可欠な要素であることがよくわかりました。螺旋階段を回って他の知的遺伝子との交配を意図的に実行していくことが不可欠なのです。
TEDにおけるリドレーの講演です。要旨が完結に述べられています。
「繁栄」はおすすめです。人類の明るい将来が見えてきます。
(メモ)
・分業の始まり:男は動物の狩猟に出かけ、女は調理と植物の採集を担当したという性別であった。
・社会的進化:社会的模倣が静かに始まるとき、それを社会的進化と呼んでよかろう。知識は集中されたり、統合された形では存在せず、多数の個人がばらばらに持つ不完全でしばしば相矛盾する知識という、分散した断片としてのみ存在する。ハイエク
投稿情報: 13:55 カテゴリー: 書籍, 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
Strategies for Your Company's Most Valuable Asset
3.11における東京電力と政府の対応は事故への対応の全容が明らかになるとともに厳しい批判にさらされるようになりました。その結果、東京電力は社長が相次いで2名交代し、実質国有化。菅直人首相は退陣に追い込まれました。
決定的瞬間における危機への対応は企業のみならず一国の首相の命運をかける試金石となるのです。
「評判はマネジメントせよ」Reputation Rules のテーマは企業が直面する危機とその対応に基づく評判リスクについての戦略です。
世界中の誰でも知っている様々なケースを提供しています。ケースは重い...
その発生が事実であり、客観的な事実は否定しにくいものです。
ですから、本書に掲載されているケースは似たような状況に立ちあった時になんらかの気づきを与えてくれるかもしれません。
直面している問題を主観的に捉えると、自分の抱えている立場とサンクコスト、さらには「専門家の罠」にはまってしまう可能性が小さくありません。そこで今後のためにDB化しておくことにしました。
予行演習のようなものかもしれません。でも、起こらないで欲しいものです。
企業にとって財務的、法務的リスクは外部に移転できますが、評判リスクだけは移転することができないことがよくわかりました。実はそれは個人も同じです。評判=信用
失ってはならない信用の重みは何にも替えられません。
<危機をチャンスもしくは好ましい評判に変えた事例>
即時に巨額の費用をかけて全世界から商品を回収したことにより、ジョンソン&ジョンソンは世界でもっ
とも信頼に足る企業となりました。それは同社のクレドに立脚した決断だと言われています。
類似のケースでは松下電機の石油ファンヒーターの回収がありました。あの時も回収を最優先して評価を高めたのは記憶に当たらしいところです。タイレノールの事故が教訓になっていたと言われます。一方、教訓を生かせなかったのが、パロマのガス給湯器の不完全燃焼と、三菱自動車のリコール隠しの事件でしょう。タイレノールを知っていてか知らずしてか、どちらだったのでしょう。
サウスウエスト1248便のシカゴ ミッドウェイ空港における事故(2005)
事故当時のサウスウエスト航空の対応と普段からの「評判の保険」が印象的です。
9.11 ニューヨーク ジュリアーニ市長
市長としての業績に行き詰まっていたジュリアーニ市長は9.11の陣頭指揮で高い危機管理能力を評価され、一気に人気を回復しました。
ウォルマート ハリケーンカトリーナへの救難活動(2005)
政府の救援活動が遅れる中で、ウォルマートのトラック群は続々とニューオーリンズに到着。様々な批判につつまれていた企業のイメージを計画的な評判対策塗り替えました。
<危機をきっかけに評判を落としたケース>
インテル ペンティアム浮動少数点除算命令のバグ (1994)
ユーザーの指摘をパスし、しばらく時間が経過した後にあたかも自社が発見したかのように発表し、影響がないと無視しましたが、批判に耐えかねてリコールしました。しかも、そのリコールも請求があったユーザーだけというスタンスで大きく評判を落としました。
メルセデスベンツAクラス ムーステスト横転事故(1997)
機関車トーマス150万個リコール(2007)
中国で生産し、有害な鉛が含まれていることがわかりましたが、製造者の米国RC2は適切な対応を取りませんでした。中国の下請け会社と責任のなすれ着け合いをしていたのです。結果として、RC2社は日本のタカラトミー社に買収されました。
トヨタ 豊田章男社長は 公式招致を受けながら1ヶ月渡米を先延ばししたとされて批判されました。
投稿情報: 22:44 カテゴリー: 書籍, 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
リビングニーズの素晴らしいストーリーに巡り会いました。
現在では、余命6ヶ月と宣告された被保険者に対して一定の死亡保険金を生前に前払いするリビングニーズ・ベネフィットはどの生命保険会社においても無料で付帯できる特約になっています。
リビングニーズ・ベネフィットはその名の通り、本来死亡した後に受取人に支払うべき保険金を、まだ生きている間にお金が必要な被保険者に前払いする特約です。保険会社によって一定の金額の縛りはありますが、保険金から半年分の金利と保険料相当額を指し引いて支払うというきわめて被保険者に有利な内容なのです。というのは、6ヶ月以内に死亡しなかった場合のリスクは保険会社が負うことになるからです。満期のある保険の場合にリビングニーズ・ベネフィットを支払った後に、被保険者が余命6ヶ月以内という医師の診断書に反して、満期を過ぎも生存していたケースなどを考えるとそのリスクは容易に想像することができるでしょう。
ところで、「評判はマネジメントせよ」に掲載されていたリビングニーズ・ベネフィット開発と発売にまつわる以下のストーリーは私の知らない興味深い内容でした。
1980年代はエイズの嵐が全世界に吹き荒れていました。当時は有効な治療薬が開発されていなかったため、エイズ患者の死亡は時間の問題とされていたのです。
そして当時、生命保険金買い取りサービスが始まっていました。生命保険買い取りサービスはガンやエイズなどの末期患者から生命保険金の請求権を一定の割引率で買い取る商売です。保険の契約者は保険金の受取人を買い取り会社に変更することによって、その保険金額の一部を生前に受け取ることができたのです。末期患者には治療費その他でお金が必要なのでしょう。余命24ヶ月以内という条件の下、割引率が20%~40%と高率にも関わらず、背に腹は代えられずに買い取りの請求が増えて行ったようです。
そんな時期の1988年にプルデンシャル生命カナダ支社CEOのロン・バーバロはトロントのエイズ患者のホスピスを訪れたのです。そして、ホスピスにおけるエイズの末期患者の様子を目の当たりにして、自社の生命保険の契約者に対する生命保険金の買い取りサービスを着想したというのです。
それはビジネスというより純粋に人道的な見地からの着想だったといいます。しかし、この着想は大きなリスクを伴うものだったようです。
困窮している顧客に救いの手を差し伸べることによって、将来の顧客にとってプルデンシャルは頼れる会社になるという強力なメッセージを発することができる一方、その割引率などの条件によっては生命保険の買い取り会社が世論から受けていた悪徳商法とされて逆効果になる可能性があり、会社の経営にも大きな影響を及ぼす可能性を有していたからです。ですから、何もしないというのも有力な選択肢の一つだったのです。
様々な検討の結果、他社の生命保険の買い取りはせず、余命6ヶ月の診断書の提出、手数料150ドル、金利6ヶ月分を控除して保険金の約95%を支払うという内容でリビングニーズ・ベネフィットを発売したのです。(保険料は無料)
その結果は、その取り組みが大きく報道で取り上げられ、優しさをもつ業界のパイオニアとして描き出されたのです。1990年の上半期の売上は25%増を記録しました。実質95%というレートの提示が奏功したと言えるでしょう。20%レスだったら収益の拡大策と受け取られて逆効果だったかもしれません。
小さなハロー効果でもはるかに大規模な保険事業に対する長期的メリットが収益拡大における短期的なメリットより大きいことを示したと言えます。
短期的に収益拡大を目指すか、長期的に評判を高める戦略を採るか。言うは易し、行うは難しですが、顧客との信頼に基づく関係作りは困った時に相手に頼れるということが大前提です。
プルデンシャルは素晴らしい選択をしたと言えるでしょう。
素晴らしいストーリーを創作できる素晴らしい会社なのです。
投稿情報: 00:22 カテゴリー: 書籍, 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
たまたま読んでいた「ブランド・ハイジャック」にミームという言葉が出てきました。同書に、ミームとは「アイデア全体を自らわからせるメッセージであり、一瞬で伝わるもの」とされていました。
いや、それは全く違っていてむしろ、「経験価値」 = 「ミーム」 なのではないか...
ミームとは、
人は永遠に生きたいと思っています。しかし、それができないのであれば、子孫(遺伝子gene)を残したい。人と書きましたが、実はその主体はgeneであってその宿る個体に自己の複製子を残すことを求めます。自己の複製子を残すことが生物の本性であるとされています。
リチャード・ドーキンスは進化は自然選択の過程において起きるとしたダーウィンの生物学を踏襲した上で、さらにミーム(文化的複製・模倣)が人間の進化に大きな影響をもたらしていると主張しました。人間は生物学的な遺伝子だけでなく、知識の遺伝子たるミームを残したがっていると。
一方、経験価値とは、
物質は溢れています。そして、消費には限度がないことに消費者は気づき始めています。消費すればするほど、新たな消費をしたくなり、それは必ずしも満足につながらないことが消費者にもわかってきました。そして、すべての商品・サービスは激しい競争の中でコモデティ化への道を歩みます。購買の決定の主導権は企業から消費者個人に決定的に移っています。そんな環境の下で消費者が求めているモノが何なのか?
その答えの一つが、「経験」です。
blog、twitter、Facebookにはその自分個人の「経験」を仲間「族」と「共有化」したいというメッセージに溢れています。この現象からも「経験」と「共有化」が消費者が求める解の一つであろうことは間違いありません。「共有化」は、ソーシャルメディアの出現によって仲間「族」の組成と情報の共有化が容易になりました。しかも、文字だけでなく、写真、動画、音声、音楽など五感に感じやすい(表現力に乏しくてもわかりやすい)レベルで可能になったのです。
あと必要なのは個人の「経験」だけなのです。この「経験」がなければ「共有化」すべきものもないわけで、結果として社会的動物である人間が最も好む仲間「族」づくりも不可能となってしまいます。
そこで、経験価値の満足はミームの要求の充足ではないかと思ったのです。個人が有すると言われる満足できる「経験」をしたい、さらにその「経験」を「族」と共有化したい。その「経験」を何かに残したいという想いは、ドーキンスのいう人間にそもそも備わっている知的遺伝子たる「ミーム」からの要求なのだと。経験価値の重要性が様々な書物から語られていますが、ミーム(人間の本性たる知的遺伝子)が個体に命じているからだと考えるのはどうでしょうか。
そして、今までは本を書く、作曲する、絵を描くなど特殊な能力がないと、文化的遺伝子を残すことができないと思われていましたが、今はソーシャルメディアの出現によって誰でも簡単にミームを残すことが可能となってしまったのです。(なってしまったという点が、それを必ずしも望んでいる人ばかりではないということから重要なのです。)
だからこそ、個人の「経験」を生み出すことに価値が出て来たと言えます。
個人的な感情である「経験」は個人本人にしかできないという特徴があります。 製品としての「経験」がない以上、消費者は経験を購入することはできません。買うことができない点が重要です。交換できないということなのです。従って、自分一人で経験を作り出すか、だれかに助けてもらわなければなりません。
カメラをはじめる人、家庭菜園をはじめる人、陶芸をはじめる人、小説を書きはじめる人など...一人でできるでしょうか?いいえ、何をやるしても一人ではできません。それは何事も先人の文化的な模倣の積み重ねだからであり、誰かの助けが必要なのです。ですから、「経験」は個人とそれを手助けする人(企業)の「共創」にならざるをえないのです。
従って、個人の「経験」を生み出す手助けは今後も大きなビジネスチャンスであり、人間社会の文化を飛躍的に向上させる社会的な意義のある事業ということができるでしょう。マスではなく、個人であるという方向の延長線上に個人の自己実現の経験価値をミームとして残すのです。
ソーシャルメディアは人間の知的遺伝子であるミームがその経験価値を発露させていると言ってもいいでしょう。ミームの爆発はこれからかもしれません。
ミームのお手伝いするビジネスがコモデティからの脱却の一つの道です。ミームは知的遺伝子の複製を個人に命じているのですから。
投稿情報: 12:24 カテゴリー: 選択の自由 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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